2025/3/1 吉﨑理乃×ユニコーンSO 交響詩「ドン・キホーテ」 ― 2025年03月01日 19:36
ユニコーン・シンフォニー・オーケストラ
第18回定期演奏会
日時:2025年3月1日(土) 13:30開演
会場:大田区民ホール・アプリコ 大ホール
指揮:吉﨑 理乃
共演:チェロ/齊藤 響
ヴィオラ/山分 皓太
演目:ワーグナー/歌劇「ローエングリン」
第一幕への前奏曲
R.シュトラウス/「ばらの騎士」組曲
R.シュトラウス/交響詩「ドン・キホーテ」
目当ては吉﨑理乃、昨年の東京国際指揮者コンクールにて、邦人最高位の第3位を獲得し、併せて特別賞・齋藤秀雄賞を受賞した。すでに京都市交響楽団を指揮してデビューを飾っているが、首都圏のプロオケを振るのはまだ先だろうから、まずはアマオケでお手並み拝見である。
相手をするユニコーンSOの母体は慶應義塾中等部の卒業生、一年前に聴いた太田弦指揮のブルックナー「交響曲第8番」の演奏が強く印象に残っている。
演目は3曲、共通のキーワードは「騎士」ということになろうか。
メインの「ドン・キホーテ」は、昨冬の沼尻×桐朋の名演があるから、どうしても分が悪い。チェロ、ヴィオラによる二重協奏曲のようなところがあるし、管のフラッタータンギングや弦の高速トリルとか均一な持続音など奏法の難易度が高く、合わせるだけでも大変である。
ユニコーンSOは一般の大学オケレベルで、上野通明、田原綾子のソロや桐朋の音大生と比べるのはかわいそう。吉﨑理乃も慎重さが勝って、それぞれの場面での閃きは確かにあったけど、変奏によってドン・キホーテの数々の奇行を描く物語としては単調というか平板なものになってしまった。
「ドン・キホーテ」は「英雄の生涯」と並ぶ交響詩の名作ながら、「英雄の生涯」がどんな演奏であっても余り失望しないのに対し、「ドン・キホーテ」は演奏によって感銘の度合が大きく違う。なかなか難しい曲ではある。
前半の2曲は健闘した。「ローエングリン」の前奏曲は、冒頭から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンが密やかで繊細な音を奏でた。さまざまな楽器が加わり音量が増してクライマックスが來る。吉﨑理乃はクレッシェンドのとき徐々に減速し、滑らかに音量を増して行く。その速度感、音量加減は才能だろう。ワーグナー音楽の高揚感をもたらしてくれた。
「ばらの騎士」の組曲はオペラの各場面をつなぎ合わせたもの。前奏曲からはじまってすぐに第2幕の騎士の到着とばらの献呈となり、カオスな音楽を挟んでオックス男爵の有名なワルツから、第3幕終盤の三重唱と二重唱の音楽が続き、最後はオペラの順序を違え、オックス男爵が退場するワルツにより盛り上げて終わる。吉﨑理乃は緩急が交互に繰り返す曲の構成を活かし、しっとりとした情緒とドタバタや混乱など、オペラの各場面が目に浮かぶような演奏を聴かせてくれた。
吉﨑理乃の指揮は見た目にも拍が正確でしっかり振る。オケの手綱さばきも手堅い。取り立てて目立つような指揮ぶりではないが、つくりだす音楽は決して凡庸なものでない。今後が楽しみな指揮者の一人である。
2025/2/9 ポペルカ×N響 二つの「シンフォニエッタ」 ― 2025年02月09日 20:54
NHK交響楽団 第2031回 定期公演 Aプログラム
日時:2025年2月9日(日) 14:00 開演
会場:NHKホール
指揮:ペトル・ポペルカ
共演:ラデク・バボラーク
演目:ツェムリンスキー/シンフォニエッタ
R.シュトラウス/ホルン協奏曲第1番
ドヴォルザーク/交響詩「のばと」
ヤナーチェク/シンフォニエッタ
N響初登場のポペルカ、数年前マティアス・ピンチャーの代役で東響を振ったのが日本デビュー。この公演を聴き逃してしまった。昨年のプラハ放送響の来日公演も行くことができなかった。で、今回、N響との組み合わせで聴くことに。
プログラムはツェムリンスキーとヤナーチェクの「シンフォニエッタ」を最初と最後に置き、間にR.シュトラウスの協奏曲とドヴォルザークの交響詩を挟むという凝ったもの。
「シンフォニエッタ」といえば、ヤナーチェクがあまりにも有名で、ツェムリンスキーは珍しい。ツェムリンスキーの作品は「抒情交響曲」しか聴いたことがない。ぼんやりとマーラーとシェーンベルクの間にあるようなイメージだけどよくは知らない。略歴をみると妹がシェーンベルクの妻であり、アルマ・シントラーとは一時恋愛関係にあったらしいから、当たらずといえども遠からずだろう。しかし、作品の印象はシェーンベルクにもマーラーにも似ていない。
「シンフォニエッタ」は3楽章形式。第1楽章は活気あるリズムで辛辣かつシニカル。第2楽章は神秘的なバラード、途中爆発的に高まり最後は静寂のなかへ消えて行く。第3楽章は舞踏的でエキゾシズムな雰囲気がある。ポペルカは活き活きと曲を運び、リズムのキレもいい。指揮姿もつくりだす音楽もしなやかだ。ただ、ツェムリンスキーの曲自体に手ごたえが乏しい。一度聴いただけでは正直作品の良さがよく分からない。
R.シュトラウスの「ホルン協奏曲第1番」は彼が18か19歳のときに書いたものだという。モーツァルトをお手本にしたような古典的な作風。冒頭のファンファーレからしてバボラークは超一級。中間のアンダンテを典雅にうたい、最終のロンドはホルンではとても難しい跳躍を連続してこなしていく。思わずトランペットではないのだから、と呟いてしまった。
R.シュトラウスは赤子のときから父親のホルンの響きのなかで育ってきた。管弦楽曲作品でもホルンが効果的に用いられている。そのR.シュトラウスの「ホルン協奏曲」をバボラークが吹いてワクワクしないわけがない。演奏後、バボラークに対してN響のホルン奏者が大きな拍手で称えていた。
「のばと」はアメリカから帰国したドヴォルザーク晩年の作品。チェコの詩人エルベンの詩集「花束」に基づく連作交響詩のうちのひとつ。「のばと」の物語は、夫を毒殺して若い男と再婚した女が、故人の墓の上の木にとまった野鳩の鳴き声を聴いて、良心の呵責に苛まれ自死する、というちょっとおぞましい内容。ドヴォルザークはこの話を1.夫の葬送、2.若者の出現、3.求婚、4.墓の野鳩、5.女の葬儀、という5つのセクションに分けて作曲した。
冒頭はフルートとヴァイオリンで奏でられる葬送行進曲、女に迫る若者の姿はトランペットで表わしているのだろう。第3のセクションに入ると若者と再婚した女が踊るダンスの場面、第4セクションは苛烈、野鳩の鳴き声が女の罪の意識を刺激し、悲劇的な最期に導く。落ち着かないオケの音響と低域のバスクラリネットが印象的。最後は再び葬送行進曲が流れ今度は女を弔う。コーダは長調に転じ浄化されるように終わる。
ポペルカはドラマの各場面を巧みに描き分け、終始見通しのよいドラマをつくった。ドヴォルザークの音楽は写実的で、小交響曲と交響詩の違いがあるにせよツェムリンスキーに比べると圧倒的に分かりやすい。
ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」は最晩年の傑作。第一大戦後、祖国は独立しヤナーチェク自身は老いらくの恋の真っ最中。その高揚と情念が「シンフォニエッタ」を生み出したかも知れない。1.ファンファーレ、2.城、3.修道院、4.街路、5.市庁、の5楽章構成で、交響曲の型にはまらない自由さと奔放さがある。
第1楽章はバンダとティンパニだけのファンファーレ。バンダはトランペットを中心に13人が舞台最後列に並び、ステージ上のオケではティンパニ奏者のみが演奏する。リズムは複雑、メロディは幾つかの声部に分かれ掛け合う。13人のバンダが優秀で見事なファンファーレを吹奏した。
第2楽章は民俗舞曲調、ポペルカは速めのテンポで旋律の歌わせ方も上手い。第3楽章は優美な曲調と過激な曲調が同居し、ポペルカは才気あふれる指揮でもって捌いて行く。第4楽章のトランペットの執拗なオスティナートも颯爽とした演奏。
第5楽章は「タラス・ブーリバ」を思い起こさせる。楽章の後半において沈黙していたバンダが再び加わる。このファンファーレ以降のポペルカのテンポの伸び縮みは絶妙としかいいようがない。力任せのところが全くないのにどこまでも高みに昇って行く。
N響の適応力も素晴らしく鳥肌がたつほどだった。コンマスは長原幸太、この4月からN響の第1コンサートマスターに就任する。
2025/1/11 豊平青×クレド響 マーラー「交響曲第6番」 ― 2025年01月11日 20:42
クレド交響楽団 第12回 定期演奏会
日時:2025年1月11日(土) 15:00 開演
会場:杉並公会堂
指揮:豊平 青
共演:ヴァイオリン/ジェラール・プーレ
演目:バッハ/ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調
マーラー/交響曲第6番「悲劇的」イ短調
招待券を頂いたのでクレド響を聴きに杉並公会堂へ。
杉並公会堂はみなとみらいホールやオペラシティコンサートホールと同じシューボックス形式、座席数は1,200席と小ぶり。
クレド響は指揮の豊平青が創設した慶應義塾高等学校を母体とするアマオケ。豊平は普通のビジネスマンと音楽活動の二足の草鞋を履いているようだ。年齢はまだ20代半ば。同じ慶應出身で東京ユヴェントス・フィルを結成した坂入健司郎も「ぴあ」に務めながら指揮活動をしていた。お互い道筋が似ている。
最初はジェラール・プーレのソロでバッハの「ヴァイオリン協奏曲第1番」。ブーレはもう90歳近い。シェリングの愛弟子でフランスと日本とを行き来し教育者としても有名である。指揮の豊平はプーレに学んでいる。その縁でかクレド響とは何回も共演しているという。
プーレの足取りはしっかりしていて舞台の段差を乗り越える時も危なげがない。とても90歳を目の前にした老人とは思えない。音はまろやかでしっとりとしている。伴奏のクレド響の弦は8-6-6-5-4の編成だった。低域が厚くちょっとバランスが悪かった。
マーラーの「交響曲第6番」は元気のいい演奏。クレド響は見たところ10代や20代の若者たちで構成されている。エネルギーは有り余るほどだろう。ただアンサンブルが多少粗い。騒々しく感じる場面が何度かあった。豊平のコントロールも強弱、緩急ともにあざといところがあって開始早々から興が醒めた。残念ながら今日は音楽に集中できなかった。
2025/1/5 城谷正博×新響 「ジークフリート」ハイライト ― 2025年01月05日 20:32
新交響楽団 第268回 演奏会
日時:2025年1月5日(日) 13:30 開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:城谷 正博
共演:テノール/片寄 純也(ジークフリート)
メゾソプラノ/池田 香織(ブリュンヒルデ)
テノール/升島 唯博(ミーメ)
演目:ワーグナー/舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」
第2夜「ジークフリート」ハイライト
第1幕 第3場 霊剣ノートゥングの再生
(ミーメ,ジークフリート)
第2幕 第2場 森の中のジークフリート
(オーケストラ版)
第3幕 第3場 ブリュンヒルデの目覚め
(ジークフリート,ブリュンヒルデ)
3年か4年ぶりの新交響楽団の演奏会。たしか飯守泰次郎の代役で高関健が振ったブルックナーの「交響曲第3番」以来だと思う。新響は誰しもが認めるアマオケの雄、多くは飯守が指揮するときに聴いて来た。両者の相性は良かった。飯守が亡くなった今となれば自然機会は減っていく。
今回は「ジークフリート」に魅かれてチケットを購入した。「リング」のうち「ラインの黄金」や「ワルキューレ」の第1幕、「神々の黄昏」の抜粋などは時々演奏されるけど「ジークフリート」は珍しい。
音盤で聴くと「リング」のなかでは地味ながら、実演はなかなか魅力的。実際、物語もジークフリートの成長譚であり大蛇が出てきたり、小鳥たちがお喋りをしたりしてメルヘンチックで楽しめる。そのハイライト上演である。
指揮の城谷正博は初めて。ただ、2000年から4年かけて上演されたシティフィルの「ニーベルングの指環」の副指揮者だったというから、あの公演を裏で支えていたわけだ。飯守の弟子を自認しワーグナーをこよなく愛しているという。新国立劇場で四半世紀以上もプロダクションに係わり、現在は新国の音楽ヘッドコーチを務めている。
「ジークフリート」の上演時間はほぼ4時間、全3幕で其々3場からなる。今日は各幕から1場ずつを取り上げ、2時間弱の公演となった。
第1幕からはジークフリートがノートゥングを鍛え直す場面。城谷は指揮ぶりもつくりだす音楽も情熱的。低弦は厚く金管をくっきりと鳴らし木管で点描していく。感覚的にはテンポが少々前のめりなのが気になった。ミーメの升島唯博は声量が物足りなくて、ほとんどオケの音に隠されてしまったのは残念。
第2幕はオーケストラのみで「森のささやき」を中心に、大蛇ファーフナーとの闘いの音楽も編集して演奏された。新響はさすがアマオケ第一といわれるだけあって目立った破綻もなく、まさに劇伴音楽の原点のような「リング」を、城谷の指示のもとドラマチックに描いた。ファーフナーを目覚めさせる有名な角笛は、ホルンの首席が定位置から舞台下手の最前列に移動して吹いた。女性奏者ながらたださえ難易度が高いソロを目立つところに立って吹奏するとは大したものである。
第3幕は「ジークフリート」の大詰め、岩山の頂上でジークフリートとブリュンヒルデ が長大な愛の歓喜を歌う。ここの音楽は一層複雑で緻密なものになるのだが、作曲の過程をみると、第2幕を書いたあと10年以上の中断があって第3幕が完成されたらしい。その間「トリスタンとイゾルデ」や「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などが生み出されているというから納得である。城谷の歩みはうねりを増し、情熱的な音楽が一層情熱的となり、ブリュンヒルデが覚醒する瞬間の音楽は、まるで大きな波が打ち寄せて来るように鳴り響いた。途中「ジークフリート牧歌」の旋律を弦楽器群が繊細に奏で、池田香織と片寄純也は愛の二重唱を感動的に歌いあげ、楽劇「ジークフリート」は終幕となった。
新年の演奏会はワーグナーで始まった。アマオケとはいえ客席はほぼ満席、しっかりとした充実の音楽だった。この先一年、どんな演奏会が待ち受けているか楽しみにしたい。
2024/12/8 ノット×東響 シェーンベルクとベートーヴェン ― 2024年12月08日 20:59
東京交響楽団 川崎定期演奏会 第98回
日時:2024年12月8日(日) 14:00開演
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮:ジョナサン・ノット
共演:ヴァイオリン/アヴァ・バハリ
演目:シェーンベルク/ヴァイオリン協奏曲 op.36
ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調 op.67
「運命」
シェーンベルクの「ヴァイオリン協奏曲」は、実演はもちろん音盤や放送でも聴いたことがない。で、予習のためYouTubeを検索するとヒラリー・ハーンの音源があったので再生してみた。しかし、5分と聴いていられない。
楽曲の構成は急・緩・急という古典的な3楽章らしいが、十二音技法を駆使して書かれている。メロディーのない協奏曲なんてどうやって聴けばいいのか。早々に予習することを諦め、実演はひたすら我慢するより仕方ないと覚悟してミューザに向かった。
その実演である。ソロはスウェーデンのアヴァ・バハリ。
ハイフェッツが「指が6本必要だ」と宣った難曲中の難曲だが、彼女はさりげなく平然と弾いて行く。不快な音を一切出さない。奥行きのある美音が響き渡る。この音とノットのオケを効率よく捌く指揮の面白さに引き込まれ、最後まで聴き通すことができた。
シェーンベルクの協奏曲はテンポの変化と音量の大小、音色の移り変わりだけで出来ていて、和声も旋律も感じられないので掴みどころがない。リズムにさえ定型がない。曲がどのように進行をしているのか分からないし、フレーズとフレーズとの関係も感得できないから屡々迷子になる。
それでも第1楽章と第3楽章のバハリの目の覚めるようなカデンツァや、オケのパートの中でさらにパートを分けるといった書法、ソロと打楽器との協奏など面白い部分がなかったわけではない。
としても楽曲全体から受ける印象といえば、連続性とか統一性とか関係性とかが極めて薄く、分断、分裂、孤立を妙に意識させる音響ではあった。今年2024年はシェーンベルクの生誕150年という。音楽に限らず人の精神活動の成果というものは、その時々の社会を反映し、さらには予見するものなのだろう。
聴き手にとってのヴァイオリン協奏曲としては、ほぼ同時代に書かれたベルクの「ある天使の思いで」までが、ぎりぎり許容範囲のようである。
ソリストアンコールはクライスラーの「レチタティーヴォとスケルツォ」、柔らかく情感に溢れた美しい音楽だった。アヴァ・バハリはもう一度ベートーヴェンかブラームスで聴いてみたい。
ノット×東響によるベートーヴェンの「交響曲第5番」は再演である。
前回は聴き逃している。ノットのベートーヴェンにあまり興味を持てないせいでパスしたのかも知れない。もちろん幾つかベートーヴェンの交響曲を聴いているはずだけど、思い出せるのは「第2番」と「第3番」くらい。その両曲も前後に聴いた広上や小泉、シュテンツやヴィオッティのほうが鮮明な記憶として残っているほどだ。
でも、シェーンベルクと対比した「第5番」である。強烈な印象であったことは間違いない。陰影がとてつもなく濃い。硬軟取り混ぜた緩急と強弱、各楽器の縁取りを際立たせ、些かどっしり感は欠けるとしても、自在さと奔放さがまさに紙一重、アグレッシブで入魂の演奏だった。
指揮者とオケの一体感ここに極まれり、といった趣。週末の「ばらの騎士」が楽しみである。