2021-03-28
モーツァルト22歳、母を失い失敗に終わったパリでの就職活動。この地での作品は、悲哀に満ちたイ短調の「ピアノソナタ8番 K.310」やホ短調の「ヴァイオリンソナタ28番 K.304」などとともに、ギャラントなこの「交響曲31番 K.297」や「フルートとハープのための協奏曲 K.299」などが創り出されている。天才のパリ時代、これら作品たちの振幅の大きさに暫し愕然とする。
27日の東響は、恋するベートーヴェンのピアノコンチェルトである。ソリストはネルソン・ゲルナーの予定が北村 朋幹に代わった。北村 朋幹のピアノは、先々月同じベートーヴェンの「ピアノ協奏曲6番」(ヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲に編曲したもの)を聴いている。
ベートーヴェンは克己というかヒロイックなところが好かれるようだけど、穏やかで幸せに満ちた作品もたくさんある、この「ピアノ協奏曲4番」や、「交響曲4番」、「ヴァイオリン協奏曲」、3曲の「ラズモフスキー四重奏曲」などである。激情よりは優しさや暖かさに満ちたこれらの作品群は、ダイム伯爵夫人ヨゼフィーネとの恋愛中に書かれたといわれる。
ダイム伯爵は蝋人形館の経営者、蝋人形館には時計仕掛けの自動オルガンがあり、この自動オルガンのための曲をモーツァルトに依頼している。ただ、ヨゼフィーネにとっては不幸な結婚だった。1805年ころには未亡人となっていて、ベートーヴェンと親密に交際していたという。もっともヨゼフィーネは、1810年にシュタッケルベルク男爵と再婚、これも幸せだったとはいえず、最期は精神を病んで亡くなった。ベートーヴェンとの間に隠し子がいたという説もある。
さて、26日、シティフィルのモーツァルト「交響曲31番」。
軽快で華やかなシンフォニーというよりは、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、といった風。今の世の趨勢に逆行するような、SP音盤から聴こえてきそうな感じで、やけに時代がかっている。
譜読みの鬼、高関さんは、プレトークで、“モーツァルトがパリの聴衆にウケようと頑張り過ぎて滑ったオーケストレーション”といった趣旨の話をした。なるほどギクシャクしてぎこちない。こういった解釈もありうるわけだ。ちょっと面食らったけど、すごく面白く聴かせてもらった。
ショスタコの「交響曲8番」、これはもう実演でしか味わえない凄演。「8番」は過去にヘンヒェン×読響、ラザレフ×日フィルで聴いているが、こういった演奏に出会うと、ショスタコの最高傑作という声に頷きたくなる。
高関さんは、はったりとか外連味とかで音楽を誤魔化す人でない。コツコツと設計図=楽譜と格闘しながら、煉瓦を積み上げるようにして曲を構築していく。それが時として音楽の面白さを削ぐことがあるけど、ショスタコのような多重構造の、言ってみれば何重にも入れ子になった音楽を解きほぐすには、こういった緻密な手法が強味となる。
シティフィルの音色はざらっとした木綿のような肌ざわり。弦も管も火のでるような熱演。悲惨極まる戦場、抑圧された日常、平和さえ皮肉な目でしか眺めることができない国家の様態を、実に見事に描き出した。
最終楽章、コーダの手前でチェロのソロがある。あろうことかその直前でトップの弦が切れた。次席と楽器を交換して事なきを得たが、瞬間音楽が止まる。その事故そのものが、大詰め、偽りの平和の入口のように思えて、戦慄の深みがさらに増したことを告白しておこう。
会場は千鳥格子配置で40%程度の入りであったが、高関×シティの熱狂的ファンもいたであろう。高関さんの一般参賀となった。
翌27日、ベートーヴェンのピアノコンチェルト、北村朋幹&井上×東響。
最初、聴きなれない装飾音風に和音を分解しながら入ってきたのでちょっと吃驚したが、北村さんの音は軽すぎず重すぎず、ベートーヴェンの愛の歌「4番」にぴったり。ゆったりめのテンポを自在に動かす。1楽章の素晴らしいカデンツァも自分で創ったものらしい。
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